沿 革

大正10年(1921)

古田音松氏が山口県方面での修行から帰り、八百津(小学校前の栄町・イワイ洋品店があったところ)にてせんべい製造を始める。この時、古田金作氏、佐藤鹿之助氏が出資者となって朝日三共製菓を設立。原材料は小麦粉、黒砂糖、グルテン等。

 

昭和の初め

朝日三共製菓には従業員(小僧)が多数いて栄町の家に寝泊りしていた。

製品は名鉄電車の八百津駅より主に山口県、四国方面に出荷していたが、運賃が馬鹿にならなかったので古田音松氏等は山口県の問屋の倉庫を借り、八百津から従業員(小僧)を連れて行ってせんべいを焼いた。

佐合利之助氏は、名古屋の生菓子店で修業を積んだのち、せんべいを製造していた長野県の叔父のもとで修業し、昭和5年(1930)に岡谷市で製造を始めた。製造のかたわら煎餅焼機器「六角機」に改良を加え、火のあたりを均一にしパリッと焼上るように工夫した。

 

昭和15年(1940)頃

砂糖、小麦粉(うどん粉)が配給制となり、昭和17年頃まで朝日三共製菓の小僧であった渡辺伍市氏が八百津に残り操業していた。(場所は不明)

 

昭和17年(1942)頃から

戦時色が濃くなりせんべいの製造は中断

 

昭和21年(1946)

現在の福寿屋にて纐纈氏(名前不詳:三雄氏の父)が芋飴の製造を始める。

 

昭和22年(1947)頃

纐纈高男氏、纐纈次男氏が芋飴とさつまいもを小麦粉の代用としてせんべいを焼き始める。

 

昭和23年(1948)

纐纈勝市氏、佐合利之助氏、渡辺伍市氏が加わり5名となる。

 

昭和24年(1949)頃

自転車による専門の販売業が始まる。

 

昭和25年(1950)頃

砂糖が出始める。

 

横回しせんべい焼機(昭和26年頃)

この頃出始めた新しいせんべい焼機

 

昭和27年(1952)

八百津煎餅組合結成(任意組合 15軒ほど)

代表 渡辺伍市氏

 

昭和29年(1954)

三輪トラックに替わって四輪トラックによる運送が開始、市場開拓が本格的に。

 

昭和32年(1957)

このころから燃料が薪からプロパンガスへ

作れば売れる黄金時代(凡そ10年)に入る。

 

昭和35年(1960)

八百津煎餅協同組合結成

初代理事長 佐合利之助氏 組合員58名

第15回全国菓子大博覧会(名古屋)に初出展

主原料が芋飴(水飴)から砂糖に、また一斗缶のバラ物から袋物へと移行していく。

 

昭和39年(1964)

組合事務所の建設(商工会議所と同居)

「八百津煎餅協同組合事務所」の看板が見える

 

昭和40年(1965)

第16回全国菓子大博覧会(秋田)出展

 

昭和43年(1968)

 事業所数が、167軒のピークを迎える。(参考文献:八百津町史)

 

昭和44年(1969)

第17回全国菓子大博覧会(札幌)出展

 

昭和45年(1970)

半自動焼機の登場  全国市場を確立

 

昭和48年(1973)

第18回全国菓子大博覧会(鹿児島)出展

 

昭和49年(1974)

全自動焼機の登場 これより大量生産時代へ

 

昭和50年(1975)

ピロ―包装開始

 

昭和52年(1977)

第19回全国菓子大博覧会(静岡)出展

 

昭和59年(1984)

小型実演焼機により各地で実演宣伝

NHKはじめ各地の放送局、テレビ局に取上げられる。

 

昭和60年(1985)

第20回全国菓子大博覧会(東京)出展

 

昭和63年(1988)

ぎふ中部未来博(未来博88)にジャンボせんべい焼機で参加

 

平成 1年(1989)

第21回全国菓子大博覧会(松江)出展

八百津煎餅協同組合創立30周年記念事業を開催 

式典で挨拶する荒井前八百津町長

 

平成 7年(1995)

現在の八百津せんべい会館(八百津煎餅協同組合事務所)が落成 

 

 

平成24年(2012)

八百津煎餅協同組合創立50周年記念を開催

 

平成30年(2018)

せんべいを並べて町ゆかりの外交官・杉原千畝の画像を作成

世界最大のビスケット/クッキーのモザイク画(イメージ)としてギネス世界記録に登録 


※ 上記の内容は当組合の調査によるものです。

※ 八百津煎餅の歴史に関する情報・ご意見等がございましたら当組合にご連絡いただけますと幸甚です。